さて、前回の謎かけはこれでした。
政府はこのシニョリッジ(まぁ数字上のゲームのようなものですが)を使って他国の国債などを買って運用したりもします
この中の何がまずいかというと、シニョリッジ(通貨発行益)を運用してしまうというところだと僕は思っています。
運用というのは、基本的になるべく確実にお金を増やすことです。そこで当然リスクの低い運用を行いたいので、国債などを購入します。
ところでよく考えるとこれは大問題です。
シニョリッジというのは、国がお金を作った時に自動的に儲かる数字のゲームのようなお金です。
そしてその儲かった数字上のお金は、ある国に貸し付けられる(国債なので)ので、その国はいきなり借金を背負うことになります。そしてその借金を返すために、その国はまたシニョレッジを得て別の国に貸し付けるかもしれません。。あれ?
これって「何もなかったところから」借金の連鎖が自動的に生まれるようになっています。
金利と借金という仕組みにより、お金は永遠に誰かが増やし続けて「何もなかったところ」へ「誰もが」返し続けなくてはいけません。これって少し変ですよね?
さて、この「借金の無限連鎖」の問題を掘り下げるために借金と金利の歴史についてちょっと調べてみましょう。
場所は紀元前のヨーロッパ。かの哲人アリストテレスは貨幣を貸し付けて利息を取る行為を「自然に反している」といったそうです。確かに自然に生まれたものというのはいつかは朽ち果てていくもの。利息のように時間が経過するほど増えるというのはおかしいのでしょう。
また中世キリスト教でも基本的に金利をとることは禁止対象でした。これは労働なくして得る利益は認められず、もし認めてしまうと貧富の差を拡大し、コミュニティを荒らすからだったようです。
ところが、13世紀ごろに入り生活が豊かになってくると「自分にお金を貸してくれれば1年で増やして返す」といった約束も見られるようになります。
人間が豊かになるほど金利の禁止は時代にそぐわなくなり、自然発生的に金利は認められるようになります。
そうなると、やはり確実に儲けたいのが人の常。どんどん借金は使用され、全体の金額は膨らんでいきます。
なお日本においてはどうだったのでしょうか?
どうやら紀元前から金利(当時はお米ですが)という考え方はあったようです。貸してもらったものは増やして返すという考え方ですね。
どちらにしろ金利というのは人間の自然な欲望の表れであり、禁欲生活でもしない限りおさえておくことはできないものだといえます。金利を言葉で無理やり置き換えるならば「ずっと発展したいという人間の願望が顕在化したもの」といえるでしょう。そしてそれがより確実だと信じれるところへお金が集まります。
一方でアリストテレスが指摘したように、「より確実にずっと発展したい」なんてのは自然に反しているのかもしれません。
さて、この連載の出発は「人を騙してまで儲けたくない」という悩みにこたえることでした。
そのためにお金の仕組みを理解しようと三回の連載をおこなってきましたが、ここで一つの問題が浮かび上がってきました。それは「借金と金利」の問題です。
借金と金利が生まれたことにより、お金はルールとして基本的に増え続けなければいけない宿命にあります。
しかしアリストテレスが指摘したように、もともと自然とはかけ離れたルールであるため、社会が成長に限界を感じてしまうと、とたんに実体(自然)には則さなくなります。
今の時代は、まさにこの問題が顕在化しているようにも感じます。お金は「何もなかったところ」への借金を返すために増え続けなければなりません。しかし資源の無駄遣いや大量消費に疑問を感じている今、その方法が自然な形では見つかりづらくなってきたので、悩む人が増えているのかもしれません。
社会を発展させたのは借金と金利ですが、皮肉ながらもキリスト教が禁止した通りで、コミュニティを破壊するのも、また借金と金利なのかもしれませんね。
さて、とはいえ13世紀から金利が生まれたことを考えれば、こんなことって今までもあったのではないでしょうか?そこを探れば何かヒントが見つかるかも知れません。
そこで、次回は借金と金利が歴史に及ぼしてきた影響。とりわけ国債に絞って見ていきたいと思います。